2025年9月15日(月)公山城・武寧王陵・熊津百済歴史博物館

9月15日(月)公山城・武寧王陵・熊津百済歴史館  13,761歩

No25ホテル(Hotel Fun & Fork)8:30 ~~(徒歩)~~8:43公州総合バスターミナル8:45・・(Taxi)・・8:55公山城 ~城壁 ~王宮址 ~関連施設址~公山城 11:00~~11:04 昼食「梅香」11:50・・(Taxi)・・11:56熊津百済 歴史館12:32  ~~12:35王陵園展示館13:10 ~~13:14武寧王陵13:50~~ 13:55熊津百済 歴史館14:00・・(Taxi)・・14:23公州総合バスターミナル14:28・・(公州扶余市外バス2時間)・・16:24扶余総合バスターミナル16:25~~16:35ヒーリングハウスピクジャン18:00~~18:23夕食19:20~~19:30ヒーリングハウスピクジャン宿泊
No25ホテル(Hotel Fun & Fork)フロントの馬彫刻 7:31
No25ホテル(Hotel Fun & Fork)で軽食とコーヒー 7:40
No25ホテル出発 8:30
公州総合バスターミナル・ロッカー 8:44
荷物一時保管
公州総合バスターミナル8:45・(Taxi)・8:55公山城 ~城壁 ~王宮址 ~関連施設址~公山城
公山城 (コンサンソン)錦西楼 8:56
百済時代の王都「熊津(現在の公州)」を守るために築かれた。
475年、百済の文周王が漢城(現在のソウル)から熊津へ遷都した際に建造された。
538年に扶余へ遷都するまでの約64年間、百済王都の防衛拠点として機能した。
2015年にユネスコ世界文化遺産に登録。
公山城錦西楼入口  9:03
公山城錦西楼 9:03
公山城錦西楼天井絵 9:03
1993年復元
公山城錦西楼 9:06
公山城錦西楼 9:06
公州市と錦江 9:11
公山亭修復中 9:13
錦江 9:17
公山城王宮関連・拱北楼と王宮址 9:19
公山城王宮址 9:20
公山城王宮址 9:20
公山城王宮址 9:20
公山城拱北楼(道指定有形文化財第37号) 9:24
1603年建立
公州市公山城地下冷蔵庫 9:28
養蚕場で使用する蚕の卵を冷蔵保存するために1915年に建てられた。
公州市公山城地下冷蔵庫
挽河楼と蓮池(忠南道記念物第42号) 9:31
石段を積み上げ、深さ9m、蓮池と錦江の間に挽河楼がある。
霊隠寺(道指定有形文化財第51号) 9:34
1458年建立、壬辰倭乱(文禄の役)のときは僧兵の宿舎となった。
霊隠寺(ヨンインサ) 9:35
仏教寺院、本尊:釈迦如来?
挽河楼と蓮池 9:36
休息所 9:47
分岐点 10:04
Your are Here 10:04
①錦西楼(入口)、㉑蓮池、⑮臨流閣、Your are Here
雙樹亭史跡碑(有形文化財) 10:09
公山城サンスチョンサ石碑
雙樹亭(文化財資料第49号) 10:11
朝鮮時代、仁祖が李适の乱を逃れて非難し滞留した。
雙樹にもたれて王都を憂いていた仁祖が平定の知らせを聞いて喜び、
この雙樹に正三品の通訓大夫を授けた。
公山城 百済の池 10:12
直径9.5mの人工雨水貯水池、消防用水源、百済宮殿の旧跡に位置する。
雙樹亭 10:18
雙樹亭からの眺め 10:21
公山城王宮址と拱北楼を望む 10:32
済民天橋永世碑(公州市地方文化財第20号) 10:39
1817年、大洪水で済民天橋が崩壊したあとに再建した碑石。
再建のための資金調達のため一般市民が寄付したことや役人の名前が記されている。
世界文化遺産(陵山里古墳群、定林寺址など) 10:41
公山城観光案内所 10:42
公山城写真 10:54
「梅香」昼食 11:04
「梅香」 蕎麦挽き用石臼
韓国産蕎麦100%使用
「梅香」 冷やし蕎麦 11:13
「梅香」 冷やし蕎麦 11:13
公山城11:00~~11:04 昼食「梅香」11:50・・(Taxi)・・11:55熊津百済 歴史館
熊津百済 歴史館 11:55
熊津百済 歴史館エントランス 11:57
武寧王
熊津百済 歴史館・遷都 12:02
百済が熊津(現在の公州)に遷都したのは、
475年に高句麗の侵攻によって首都・漢城(現在のソウル)が陥落したことが原因。
『三国史記』百済本紀によると、475年に漢城が高句麗に陥落した背景には、
百済王・蓋鹵王(がいろおう)が「姦人(かんじん)」=つまり裏切り者やスパイの言葉を信じてしまったことがあったと記録されている。
この「姦人」は、高句麗の長寿王が多額の資金を投じて育成し、
百済に送り込んだ人物(僧侶の道林)だったとされていて、蓋鹵王はその人物に篭絡されてしまった。道林は百済の内部事情を高句麗に知らせていた。
つまり、高句麗は軍事力だけでなく、情報戦でも百済を揺さぶっていた。
蓋鹵王はその失策を悔いて、息子の文周王に「自分は愚かで人を見る目がなかった」と語り、王族の血筋を絶やさぬよう逃げるように勧めたという逸話も残ってる。
まるで狐の知恵比べみたいな話だが、実際は国の命運を左右するほどの深刻な策略だった。
こういう裏の動きって、歴史の表舞台では見えにくいが、すごく重要である。
蓋鹵王(がいろおう)が北魏に接近した外交戦略は、
高句麗の脅威に対抗するための切実な試みだった。

百済は長年、中国南朝(宋など)との関係を重視していたが、蓋鹵王の時代になると高句麗の圧力が強まり、南朝だけでは対抗できない状況になっていた。そこで蓋鹵王は、北方の強国・北魏にも接触を図ることにした。
472年、蓋鹵王は北魏に使者を送り、高句麗の非道を訴えて討伐を依頼した。
北魏は一応、視察使を派遣したが、高句麗に阻まれて百済には到達できず、
結局は何の成果も得られなかった。
この外交戦略は、高句麗の長寿王を激怒させる結果となり、
翌475年には高句麗が3万の兵を率いて百済の首都・漢城を攻撃した。
蓋鹵王は捕らえられて処刑され、百済は一時的に滅亡状態に陥った。
蓋鹵王の北魏接近は、外交的には大胆で先進的だったが、
軍事的・地政学的な現実には勝てなかった。
それでも、彼の試みは百済が生き残るための必死の策だったし、
後の文周王による再興につながる一歩でもあった。
もし北魏が本気で動いていたら、朝鮮半島の勢力図はまったく違っていたかもしれない。
王都熊津
このときの王・文周王は、急遽熊津へと都を移したが、
遷都直後は王の暗殺や政権の混乱が続いた。
三斤王、東城王と続く中で、東城王は熊津地域の新勢力と旧漢城貴族とのバランスを
取りながら、国の安定に尽力した。
熊津は山と川に囲まれた防衛に適した地形で、外敵からの防御には優れていたが、
対外進出には不利な立地でもあった。
そのため、百済は国力を回復した後、538年に聖王のもとで泗沘(現在の扶余)へ
再び遷都し、熊津時代は約60年で幕を閉じた。
熊津時代は政治的には不安定であったが、武寧王の登場によって高句麗への反撃が始まり、
百済の中興期として位置づけられている。
熊津には今も武寧王陵などの文化遺産が残っていて、百済の歴史を物語っている。
王都熊津遺跡のジオラマ 12:12
王都熊津遺跡
538年聖王が熊津から泗沘(現在の扶余)へ再び遷都
660年新羅と唐の攻撃を受けた義慈王(百済の第31代王・最後の王)は熊津を脱し熊津に避難したが、百済は唐・新羅連合軍によって滅亡した。
百済の遺臣たちは倭国に援軍を求め、倭国は百済王子・扶余豊璋を送り、復興支援を決断した。倭国は約27,000人の兵と800隻の船を派遣し百済遺民とともに唐・新羅連合軍と白村江で激突した。唐軍は約13,000人、新羅軍も加勢し、海戦で倭軍を圧倒した。
倭軍は大敗し、約10,000人の兵と400隻の船を失ったとされる。
百済の復興は失敗し、663年完全に百済は完全に滅亡した。
熊津百済 歴史館 12:32
王陵園入口付近チケット売り場 鎮墓獣 12:35
鎮墓獣を3倍の大きさで製作したレプリカ。
中国の南北朝時代には墓の前、または中に置かれた。
死者をあの世へと導く案内役を兼ねていた。
韓国の古墳では、百済時代の武寧王陵で初めて出土した。
王陵園の展示館 12:37
武寧王陵と王陵園の展示館 12:38
去る者の業績と送る者の孫頃で完成させた古墳
金製冠飾(王)(国宝第154号) 映像
公州武寧王陵(1971年発掘) 百済時代
世界文化遺産 公州武寧王陵と王陵園
公州武寧王陵と王陵園
公州武寧王陵と王陵園
④6号墳、③5号墳、①武寧王陵、②1号墳~4号墳、⑤積石遺構、⑥艇止山遺構
王陵園の5号横穴式石室墳
石室墓は追加葬ができるように墓室を設け、
墓の一方に通路(羨道)と入口を造った構造である。
武寧王陵 発見時の様子
壁石を膝の高さまで抜き取った後、
発掘団長と公州博物館長が墓の内部に入り20分後に出てきた。
記者団に「武寧王と王妃のの墓」と伝えた。
そして翌朝までに墓誌石を含む約5,200点の遺物が収拾された。
このため考古学的な価値を失った。

武寧王陵から出土した遺物の総数については、
計108種4,600点余りという数字がよく知られているが、約5,200点とする報告もある。
この差は、何を「遺物」として数えるかによって変わってくる。
約5,200点とされる場合には、以下のようなものが含まれている可能性が高い:
主要な副葬品(金製冠飾、耳飾り、首飾り、環頭大刀、銅鏡など)
陶磁器類(中国南朝系の舶載品を含む)
木製品・漆器類(王と王妃の頭枕や足座など、漆塗りの装飾品)
貨幣類(五銖銭など)
ガラス玉・勾玉などの装身具
建築部材や装飾塼(せん)(蓮華文塼など、墓室の壁面を飾るもの)
保存状態の悪い破片類や微細な構成物(漆片、金箔片、木片など)
保存科学や材質分析の対象となった微細な断片まで含めると、総数が5,000点を超える。
特に木・漆器類は非常に脆弱で、破片が多く、それらも一つ一つ記録されている。
この違いは、考古学的な分類基準や保存処理の過程での記録方法にも関係していて、
どちらの数字も文脈によって正しいと言える。

武寧王陵の発見は、東アジアの古墳研究にとっては極めて貴重な事例だった。
でも、発見直後に保存よりも収集を優先してしまったことで、
遺物の配置や墓室内の構造、埋葬の順序などの情報が失われてしまった。
考古学では「文物の位置関係」や「土層の順序」がとても重要で、
それによって埋葬の儀礼や文化的背景を読み解くことができる。
武寧王陵の場合、約3,000点もの豪華な副葬品が出土したが、
それらがどのように配置されていたか、どの順に納められたかなどの情報が
曖昧になってしまったのは、研究者にとっては大きな痛手だった。
ただし、墓誌や棺材の樹種(日本固有の高野槙)など、保存された情報も多くて、
百済と日本の交流を示す証拠としては非常に価値が高い。
だから「損失はあったけれど、それでも得られたものも大きかった」。

武寧王陵と6号墳は塼築墳(煉瓦造り墓) 12:48
武寧王陵 煉瓦造り墓(塼墳) 12:48
武寧王陵 煉瓦造り墓(塼墳) 12:48
武寧王陵 煉瓦造り墓(塼墳) 12:49
武寧王陵 煉瓦造り墓(塼墳) 12:49
武寧王陵 煉瓦造り墓(塼墳) 12:52
武寧王陵 煉瓦造り墓(塼墳) 12:53
武寧王陵 煉瓦造り墓(塼墳) 12:53


武寧王の木枕
武寧王妃の木枕
環頭大刀
武寧王陵と王陵園の展示館にて 13:09
武寧王陵と王陵園の展示館にて 13:09

公州武寧王陵と王陵園
④6号墳、③5号墳、①武寧王陵、②1号墳~4号墳、⑤積石遺構、⑥艇止山遺構
公州武寧王陵と王陵園 13:14
左側:6号墳、右側:5号墳
1971年7月武寧王陵と王陵園の梅雨時の被害を防止するための排水工事をしている中、
6号墳の隣のレンガ墓(塼墳)の入口が発見された。入口はレンガが積まれたまま詰まっていたが、入口を開けてみると一度も盗掘されたことのない墓が確認された。
王陵園6号墳 13:15
王陵園6号墳 13:15
王陵園5号墳 13:16
武寧王陵 13:19
武寧王陵 13:19
武寧王陵 13:20
王陵園1号墳~4号墳 13:21
公州武寧王陵と王陵園発掘調査
王陵園1号墳~4号墳 13:22
公州武寧王陵と王陵園発掘調査
王陵園1号墳~4号墳 13:23
公州武寧王陵と王陵園発掘調査現場
王陵園1号墳~4号墳 13:23
公州武寧王陵と王陵園発掘調査
王陵園1号墳~4号墳 13:29
公州武寧王陵と王陵園発掘調査
公州武寧王陵と王陵園発掘調査 13:30
公州武寧王陵と王陵園発掘調査 13:30
Papagoで翻訳
公州武寧王陵と王陵園発掘調査中 13:32
公州武寧王陵と王陵園発掘調査中 13:33
公州武寧王陵と王陵園 13:49
13:14武寧王陵13:50~~ 13:55熊津百済 歴史館14:00・・(Taxi)・・14:23公州総合バスターミナル14:28・・(公州扶余市外バス2時間)・・16:24扶余総合バスターミナル
公州扶余市外バスからの眺め 16:00
公州扶余市外バスから扶余の聖王坐像を見る 16:22
扶余総合バスターミナル 14:24
扶余総合バスターミナル16:25~~16:35ヒーリングハウスピクジャン
扶余の聖王騎馬像 16:33
ヒーリングハウスピクジャン 16:35
ヒーリングハウスピクジャン18:00~~18:23夕食19:20~~19:30ヒーリングハウスピクジャン宿泊
扶余の階伯将軍騎馬像 18:06
24時間営業の韓国料理店「全州名家」主力メニュー豆もやしクッパ 18:22
韓国料理店「全州名家」 18:23
韓国料理 18:34
イカ15,000₩、ニラ入り豚足の和え物13,000₩、餃子など
韓国焼酎「宣陽焼酎・ソニャンソジュ)4,500₩ 18:41
焼酎とビールを混ぜて飲む「ソメク」という飲み方もある。

ヒーリングハウスピクジャン 힐링하우스 피크장 / Healinghouse Peakjang 
82-41-834 1158
住所:〒33154충청남도 부여군 부여읍 동남리 702-1
忠清南道 扶余郡 扶余邑 東南里 702-1
道路名住所:충청남도 부여군 부여읍 사비로54번길 5
忠清南道 扶余郡 扶余邑 泗沘路54番キル 5
5, Sabi-ro 54beon-gil, Buyeo-eup, Buyeo-gun, Chungcheongnam-do

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