2025年9月16日(火)扶蘇山城・白馬江・国立扶余博物館

9月16日(火)扶蘇山城・白馬江・国立扶余博物館  16,534歩

 ヒーリングハウスピクジャン7:00~~7:07朝食「全州名家豆」7:49~(
散歩)~ 8:25ヒーリングハウスピクジャン8:30・・(Taxi)・・ 8:40扶蘇山城11:40~ 皐蘭寺船着場12:00~(白馬江・扶余遊覧船2,000₩)~12:15扶余船着場~12:34昼食「グドラドルサムパブ」13:30・・(Taxi)・・13:45 国立扶余博物館15:15~(徒歩)~15:38定林寺址五層石塔15:58~~16:00定林寺址博物館16:40・・(Taxi)・・17:00ヒーリングハウスピクジャン~~17:13夕食「宮南手打ちカルグスク」18:37~~ 18:43ヒーリングハウスピクジャン
扶余聖堂(カトリック教会) 7:02
ヒーリングハウスピクジャン7:00~~7:07朝食「全州名家」7:49~(
散歩)~ 8:25ヒーリングハウスピクジャン
朝食「全州名家」 7:12
ピリ辛のスンドゥブ 7:16
豆もやしクッパ5,500₩ 7:21
「全州名家」 メニュー(Papagoにて翻訳)
「全州名家」7:49~(散歩)~ 8:25ヒーリングハウスピクジャン
階伯(ケベク)将軍像 7:48
百済末期の将軍で、660年に新羅・唐の連合軍が百済に侵攻してきた際、
わずか5,000人の兵を率いて黄山伐(ファンサンボル)の戦いで迎え撃った英雄である。
彼は戦いに臨む前、自らの妻子を手にかけたと伝えられていて、
「国が滅びるなら、家族が辱めを受けるより潔く死を選ばせる」という覚悟を示したとされている。これは『三国史記』にも記録がある。後世の儒学者たちからは「忠義の象徴」として高く評価されている。
戦では4度の局地戦に勝利したものの、最終的には兵力差に押されて戦死した。
彼の死をもって百済軍は壊滅し、百済は滅亡へと向かった。
彼の本名は「扶余承(プヨ・スン)」で、百済王族の血を引いていた可能性もあるという。
まさに、国の最後を背負った忠臣のひとりとして、韓国では今も語り継がれている人物。
扶余郡庁 7:51
百済大宋の鐘 7:52
百済大宋の鐘 7:53
扶余市街 7:57
通りには電柱が見られない。景観を損なわない。
ヒーリングハウスピクジャン 8:24
ヒーリングハウスピクジャン出発8:30・・(Taxi)・・ 8:40扶蘇山城
扶蘇山城 8:40
扶蘇山門 8:44
午前9時前なので入場無料
扶蘇山門・泗沘門 8:45
泗沘(しび、朝鮮語: 사비、サビ)、現在の扶余、古代:所夫里(そふり)
扶余扶蘇山城説明文 8:47
扶余扶蘇山城 9:00
三忠祠重建事蹟碑 9:06
三忠祠 9:07
百済末期の義慈王に忠誠を尽くした三人の忠臣
成忠(성충)、興首(흥수)、階伯(계백)を追悼するために1957年に建てられた祠堂
三人の忠臣 9:08
成忠(성충)、興首(흥수)、階伯(계백)
蓮池 9:12
迎日楼 9:33
「日を迎える楼」という意味で、朝日が昇る方向に向いて建てられている。
扶蘇山城の山腹にある東屋で、白馬江(昔の白村江)を見下ろす絶景ポイント
迎日楼にて 9:36
迎日楼にて 9:36
軍倉庫跡 9:27
軍倉庫跡 9:27
整備中 9:49
太子谷森の道 9:55
かつて百済の太子が散策したと推定される場所。
扶蘇山城竪穴建物跡資料館 9:56
扶蘇山城竪穴建物跡資料館 9:58
扶蘇山城竪穴建物跡 10:03
扶蘇山城竪穴建物跡 10:03
扶蘇山城竪穴建物跡から出土した遺物 10:03
百済時代の土器類、高麗時代の土器類及び青磁器
扶蘇山城竪穴建物跡資料館 10:04
半月楼 10:08
半月楼から扶余市街を望む 10:10
右側:白馬江
太子谷森の道 10:29
泗沘楼 10:32
扶蘇山城で最も高い場所である送月台にある楼閣。
金銅鄭智遠名釈迦如来三尊立像(宝物第196号)百済時代
現在、国立扶余博物館保管
1919年建物を移設する際にここで発見された。
泗沘楼 10:35
泗沘楼から白馬江を望む 10:35

百花亭へ
百花亭(忠清南道文化財資料第108号指定) 10:52
百花亭(ペッカジョン)は落下岩(堕死岩)の上に建てられた東屋で
ここで身を投げた宮人たちの霊魂を追慕するため、1992年に建てられた。

660年、百済の首都・泗沘(サビ)が唐・新羅連合軍に攻め落とされたとき、
約3000人の宮女たちが辱めを恐れて白馬江に身を投げたと伝えられている。
その様子が「花が散るようだった」ことから、岩は「落花岩」と呼ばれるようになった。
落下岩 10:54
扶蘇山の北側にある白馬江に向かってそそり立つ岩で、高さ約50mくらいの絶壁を形成している。
宮女たちが貞節を守るため身を投げ、その岩を「堕死岩」と呼んだという。
後日、人々が宮女を花に例えて「落下岩」と呼んだ。
落下岩 10:55
落下岩にて 10:59
皐蘭寺(コランサ)へ 11:21
皐蘭寺(コランサ)工事中 11:21
投身した宮女たちを弔うために高麗時代に建てられた。
皐蘭寺霊鐘閣 11:26
皐蘭寺三聖閣 11:26
皐蘭寺薬水と皐蘭草(ミツデウラボシ) 11:27
薬水を飲む際に皐蘭草の葉を水に入れて器に浮かべることで皐蘭薬水となり、
一杯飲むと3年若返ると言う伝説がある。現在皐蘭草は絶壁の隙間に少し残っている。
皐蘭寺船着場 11:47
たくさんの魚が集まっている。 11:55
黄布帆船 12:02
 皐蘭寺船着場12:00~(白馬江・扶余遊覧船2,000₩)~12:15扶余船着場
白馬江橋 12:04
落花岩 12:07
扶余遊覧船 12:14
扶余船着場 12:15
扶余船着場~12:34昼食「グドラドルサムパブ忠」13:30・・(Taxi)・・13:45 国立扶余博物館
クドゥレ彫刻公園 12:26
クドゥレ彫刻公園 12:27
クドゥレ彫刻公園 12:27
昼食「グドラドルサムパブ忠」12:34

「グドラドルサムパブ忠」にて昼食 12:53
プルコギ 12:56
サンチュにくるんで食べた。
石焼ご飯24,000₩ 13:01
ヌルンジ(オコゲ)が素朴で美味しかった。

昼食「グドラドルサムパブ忠」13:30・・(Taxi)・・13:45 国立扶余博物館
国立扶余子供博物館 13:48
国立扶余博物館 13:51
国立扶余博物館 屋外展示
国立扶余博物館、「泗沘マル公演場(사비마루 공연장)」 13:52
「泗沘(サビ)」は百済最後の都の名前、「マル」は韓国語で“語り”や“場”を意味する言葉
百済文化の魅力を映像で紹介するための常設上映スペース
百済の歴史、仏教美術、王都の生活文化などをテーマにした映像が上映されていて、
来館者が展示の前に世界観をつかめるようになっている。
国立扶余博物館「泗沘マル公演場(사비마루 공연장)」 14:00
松菊里式土器 14:11
石器類 忠南地域出土 14:11
竹形銅器、剣把形銅器 青銅器時代 14:11
竹形銅器、剣把形銅器 青銅器時代
韓国式銅剣など 扶余九峰里遺跡出土 青銅器時代 14:12
土器類 14:12
土偶 14:13
鳥形土器 西天芝山里出土 14:13
虎子 土製土器 扶余軍守里出土 14:15
便器形土器 土製土器 扶余軍守里出土 14:15
石造舎利龕(国宝) 扶余陵山里寺址出土 14:17
石造舎利龕(国宝) 扶余陵山里寺址出土 14:17
煙筒形土器、壺など 扶余陵山里寺址工房址出土 百済時代 14:18
百済金銅大香炉(国宝第287号)14:19
百済時代の最高傑作のひとつ
1993年忠清南道扶余郡の陵山里寺院址から発見された。

蓋の頂部には翼を広げた鳳凰が舞い降りる姿
胴体部には蓬莱山を模した山岳が彫られ、仙人・動物・猛獣などが生き生きと表現されている
台座には龍が香炉全体を支えるように巻きついている
この香炉は、理想郷・蓬莱山を象徴する造形で、
仏教的な浄土思想と道教的な仙境観が融合した作品とされている。
百済金銅大香炉(国宝第287号)14:19
百済金銅大香炉((国宝第287号)
香炉には鳳凰・龍・仙人・動物などが精緻に彫られていて、
仏教と道教の理想郷を融合した造形とされている。
百済金銅大香炉(国宝第287号)
土製燈盞形器台(どせいとうさんけいきだい)など 14:22
扶余陵山里寺址 百済時代
注口土器 扶余陵山里寺址 百済時代 14:22

扶余 砂宅智積碑(さたくちしゃくひ) 14:26
1948年発見、扶余官北里 百済時代
百済時代の数少ない金石文のひとつ
箱子形塼 扶余軍守里寺址 百済時代 14:28

青銅小塔片 扶余天王寺址 百済時代 14:28
金銅光背 扶余 扶蘇山城 百済時代 14:30
金銅観音菩薩像(国宝) 扶余窺岩面 百済時代 14:30
金剛菩薩立像 扶余軍守里寺址 百済時代 14:31
「鄭智遠」金銅三尊佛立像(宝物) 14:32
扶蘇山出土 百済時代
舎利器 扶余王興寺址木塔址出土 三国時代(百済)577年 14:33
青銅製舎利盒、銀製舎利壺、金製舎利眼
青銅製舎利盒など副葬品 14:34
亀形瓶 14:36
異形土器、鈴 14:37
把手付壺 14:37
金銅菩薩像 唐津 高麗時代 14:39
金銅耳飾 江原道原州市 百済時代 14:39
青銅製鬼面装飾 論山 統一新羅
粉青沙器鉄画蓮漁文瓶 14:40
扶余金寺里出土 朝鮮時代
石槽 14:46
扶余官北里出土 7世紀
松菊里形甕棺 扶余松菊里出土 14:47
甕棺 14:49
深鉢 錦山水塘里遺跡出土 青銅器時代 14:49
管玉、象嵌瑠璃管玉 14:47
扶余松菊里出土 青銅器時代
壺、器台 14:55
論山茅村里遺跡出土 百済時代 
把手付き鉄製三脚釜 扶余舊衙里出土 百済時代 14:57
青銅鬼面装飾 14:58
瓢形壺 論山連山面 百済時代 15:09
三足土器 論山連山面 百済時代 15:10
壺・器台 論山連山面 百済時代 15:11

国立扶余博物館15:15~(徒歩)~15:38定林寺址五層石塔
定林寺址 15:36
定林寺址五層石塔 15:36 
定林寺址山門 15:37
定林寺址五層石塔 15:38
世界文化遺産・百済歴史遺跡地区
定林寺址五層石塔 15:41
定林寺址五層石塔(チョンニムサジ・オチュンソッタッ)(韓国国宝9号) 15:42
泗沘(サビ、現在の扶余)時代(538年~660年)
定林寺址五層石塔 15:42
五層の石塔で、木造仏塔の様式を石造に巧みに転換した設計。
単層基壇が低く、塔身が安定感を持つ。
屋蓋石は緩やかな反りを持ち、細部まで美しく仕上げられている。
百済特有の「ペフルリム様式」(柱が上に行くほど細くなる)を採用している。
定林寺址五層石塔設計案
金堂跡 15:43
定林寺講堂跡にある覆屋(お堂) 15:44
かつては定林寺址石仏坐像は屋外に置かれていたが、風化が進んだため、
現在は講堂跡に設けられた覆屋(お堂)の中に安置されているよ。
定林寺址石仏坐像 15:45
高麗時代に造られたもので、百済滅亡後に定林寺が再建された際の仏像とされている。
高さは約5.62mで、蓮華模様の台座に座る姿が印象的。
仏像の表情は柔らかく、蒙古型の帽子をかぶったユーモラスな姿とも言われている。
定林寺址石仏坐像 15:45
定林寺址五層石塔と定林寺址石仏坐像 1930年時の写真 15:46
かつては定林寺址石仏坐像は屋外に置かれていた。
定林寺址石仏坐像 15:47

定林寺址五層石塔15:58~~16:00定林寺址博物館
定林寺址博物館 16:00
定林寺址博物館展示品 16:02
定林寺址博物館展示品 16:02
粘土像 菩薩 16:04
粘土像 菩薩 16:04
中型粘土像 鳳凰珠(ゴンボジュ)菩薩 16:04
定林寺址博物館展示室 16:02
定林寺模型 16:05
定林寺模型
プロジェクションマッピングをしている。
定林寺址五層石塔(チョンニムサジ・オチュンソッタッ) 16:09
韓国国宝第9号指定
百済後期の仏教建築の傑作で設計には「高麗尺(約35cm)」を基準にした
驚くほど緻密な数理設計が確認されている。
これは日本の古代建築にも通じる設計思想で、技術的な共通点があると考えられている。
そして定林寺址五層石塔の設計には、木造仏塔の技法を石造に応用した痕跡が見られ、
特に屋蓋石の反りや隅柱の傾斜など、日本の古代仏塔にも通じる美学があると指摘されている。そのため倭人も設計に関与した可能性を示唆している。

定林寺址鴟尾 16:37
鴟尾(しび):棟の両端に設置される装飾瓦

定林寺址博物館16:40・・(Taxi)・・17:00ヒーリングハウスピクジャン
ヒーリングハウスピクジャン17:00~~17:13夕食「宮南手打ちカルグスク」18:37
「宮南手打ちカルグスク」 17:13
Cassaビール4,000₩ 17:16
夕食「宮南手打ちカルグスク」 17:26
夕食「宮南手打ちカルグスク」 17:26
手打ちカルグスク8,000₩、餃子7,000₩、豆麺9,000₩

17:13「宮南手打ちカルグスク」18:37~~ 18:43ヒーリングハウスピクジャン
ヒーリングハウスピクジャン 힐링하우스 피크장 / Healinghouse Peakjang 
ヒーリングハウスピクジャン 18:43

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